2009年12月11日 (金)

アメイジング・ジャーニー

 手元に一枚の使われることのなかったチケットがあります。表には「THE WHO さいたまスーパーアリーナ 2008.11.16」と刷られています。イギリスのロック・バンド、ザ・フーの初単独日本公演のチケットです。一緒に見ようと大学時代の先輩が送ってくれたものです。しかし当日、ぼくはさいたまスーパーアリーナには行きませんでした。妻の体調が思わしくなかったからです。

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 その来日公演の直後に一部の都市で公開されたザ・フーの伝記映画「アメイジング・ジャーニー」のDVDを貸してくれたのは会社の後輩です。ロジャー・ダルトリーが大好きな彼女はビートルズやローリング・ストーンズと比較して著しく低い日本におけるフーの認知度に憤り、そして孤独なファンゆえに語り合える仲間を探していました。そんな彼女に来日公演が実現することを伝えると、狂喜乱舞してチケットを予約していました。彼女が見たのは横浜アリーナ公演で、行けなかったぼくにキーホルダーやポスターをお土産でくれました。前出の先輩もTシャツを送ってくれました。

 「アメイジング・ジャーニー」では1965年にデビューしたフーの歴史を振り返ります。モッズに愛されたデビュー当時。ポップ・アートやロック・オペラを経てロック史に打ち立てた金字塔「フーズ・ネクスト」。「トミー」での成功。そしてキース・ムーンの死。映画はバンドの光と影を伝えています。ピート・タウンゼントは言います、「ザ・フーとは音楽だけではない。服装、発言、態度、すべてだ。ザ・フーとは現象なんだよ」と。
 ぼくはそんなフーに心酔しました。十代の終わりごろ、フーばかり聴いていました。米軍放出のアーミーコートをまとって上京したぼくは、洋服の並木で細身のスーツをオーダーしました。リッケンバッカーも手に入れました。その米国製のセミアコースティックギターで、甘ったるいポップ・ソングを書きました。モッズを気取って、明治通りを横切りました。そんなぼくも、もう39歳です。15kgを超える贅肉をまとい、白髪も増えました。体力は落ちたし、最近のテクノロジーにはついていけません。10年以上乗ったベスパ125ET3は廃車にしました。それでも、ぼくは今もモッズです。フーがこの世の存在する限り、ぼくはモッズであり続けたい。この伝記映画を見て、そう思いました。そしてこの映画こそが、ぼくにとっての「THE WHO さいたまスーパーアリーナ 2008.11.16」だったのでした。

 妻はぼくが来日公演に行けなかったことを悔やんでいました。「今度来るときは絶対に行きよな」と言っていました。もちろん、フーが再び日本にやって来ることがあれば、絶対に見てやろうと思っています。

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2009年11月18日 (水)

2001年宇宙の旅

 ぼく個人は結婚披露宴をするつもりなど全くありませんでしたが、妻が「どうしてもしたい」と言うので一つだけ条件を出して行うことに同意しました。その条件とは入場曲に映画「2001年宇宙の旅」のメーンテーマ「ツァラトゥストラはかく語りき」を使うことでした。

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 それまで多くの映画を見てきましたが、その中でも最も圧倒的で、最も刺激的で、最も難解で、最もシンプルなこの映画の音楽を二人の門出のテーマにしたいと考えました。条件はこれだけです。ほか一切は妻に任せました。妻は披露宴がとてもうれしかったようで、その後何度も収録したビデオを見返してはニヤニヤしていました。

 2001年の秋、ぼくら二人は宇宙の旅に出ました。2005年には息子が宇宙船の乗組員に加わりました。狭い船内ですので、妻と衝突することもめずらしくありませんでした。それでも、行く先を見失うことは決してありませんでした。そして、2007年には借金をして自前の宇宙船を手に入れました。息子に続くことを期待して新たな乗組員の部屋も用意していました。しかし2009年、妻は船から下りて星になってしまいました。

 今日はぼくらの8回目の結婚記念日であり、妻の35回目の誕生日でした。息子とケーキにろうそくを立ててお祝いをしました。ろうそくの火は息子が吹き消しました。

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2009年10月29日 (木)

お父さんのバックドロップ

 ぼくの敬愛する文筆家の一人、中島らもの短編小説を原作にした「お父さんのバックドロップ」という映画があります。弱小プロレス団体のエースレスラーだった男は会社の方針でヒール(悪役)に転向。男の小学生の息子はそんな父親を恥ずかしく思っています。そんな中、団体の経営が厳しくなり、男は大物空手家との危険な真剣勝負を決意します。会社のためにも、そして息子に父親の“背中”を見せるためにも…。
 公開当時、映画館で見て元気をもらいましたが、息子と二人で暮らす今の方が心に染みます。息子の父親としても、父の子としても。

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 ぼくの父は建設現場を監督する仕事をしていました。家では無口で、ぼくは父の笑い顔を思い出すことができません。教養もある方ではありませんでした。そんな父からぼくが教わったことは二つだけで、一つは野球、もう一つはプロレスの見方です。典型的な日本のブルーカラーというわけです。
 野球はぼくが4、5歳のころからの軟らかいボールでのキャッチボールに始まり、小学生になっても父が仕事から帰って来てから暗くなるまで二人で練習をしていました。小学3年生のときに地元の少年野球チームに入ると、試合を見に来るのですが何も言わなくなりました。プレッシャーをかけたくなかったのでしょうか。真意は今となっては分かりません。そして小学4年生のときに引っ越したのですが、そこには軟式野球チームがなく、ぼくは少しずつ野球から離れていきました。父はぼくを甲子園や神宮球場でプレーする選手にしたかったのかもしれません。そうだとすると、ぼくは不祥の息子だったということになります。
 もう一つのプロレスは、小学校の高学年になり父と話すことがなくなっていく中で唯一の共通の話題でした。今は取り壊されてしまった大分市の荷揚町体育館に父とプロレスを見に行くと、試合の途中に「ああ、終わった」とつぶやきます。ぼくがまさかここでは終わらないだろうと思っていると、本当に3カウントが入るのです。30年近く前のことですので父が本当のプロレスの“仕組み”を知っていたとは思えませんが、プロレスを見る目は確かに持っていました。父は会場でアントニオ猪木がいかに強いかを身振り手振りを交え熱心に語っていました。ぼくはそんな父を頼もしく感じていたように思います。しかし、そんな日々は続きませんでした。

 父は酒好きで、それにまつわるトラブルの多い人でした。それが原因で経済的に厳しい時期もありました。ぼくがまだ小さいころは仕事には熱心に取り組んでいたそうですが、いつしかやる気を失っていました。何があったのかは分かりません。何もなかったのかもしれません。とにかくそれからは、ぼくにとって嫌悪の対象でしかありませんでした。酒ばかり飲んで…というよくある話です。
 ぼくが中学、高校に進むとほとんど話さないようになりました。そのころのぼくは音楽や文学と出会い、自分にも何か大きなことができるのではないかと考える夢見がちな少年でしたので、父の人生をあきらめたような生き方に共感できることは何もありませんでした。ただ、その父に神宮球場の野球で知られる東京の大学に進学することを告げたら、「ああ、○○の大学な。よかったな」と言ってくれました。それがぼくと父が交わした最後の会話でした。ぼくが上京した半年後に他界したからです。

 最近、あれだけ嫌っていた父に似てきているような気がしています。体調がよくないので酒はあまり飲めませんが、仕事に対するモチベーションは希薄ですし、すべてのことに疲れ果てています。会社勤めを始めたころ、飲み屋で父と一緒に仕事をしたことがあるという人に出会いました。その人は「あんたのお父さんはな、目の前に水溜りがあってもまっすぐ歩いて行く人やった」と言っていました。そのときは意味がよく分かりませんでしたが、不器用な人だったということは理解できました。水溜りなんて避ければ汚れずにすむのに、それができない人だったということです。近ごろのぼくも、かなり不器用です。大人らしく社会人らしく器用に振る舞えません。馬鹿には馬鹿と、下らないやつには下らないと言ってやりたくなります。その衝動を抑えることができなくなっています。まるで十代の少年のように、です。そして何より自分が一番馬鹿で下らないことに閉口しています。

 前出の映画のタイトルにあるバックドロップは起死回生の必殺技です。お父さんのバックドロップとは父親としてのプライドだと思います。決してあきらめない姿を子どもに見せ続けられる父親だけが持ち得る必殺技。子どもはそれがあるが故に父親に対して全幅の信頼を置けます。結局のところ、ぼくの父はそんな技を持っていませんでした。もしくは捨ててしまっていました。そして、ぼくもまだルー・テーズのような完璧なバックドロップを身につけていません。このまま父のようになってしまうのか、それとも技を習得して息子の信頼を得られるのか。今まさに岐路に立っています。

 今日は父の19回目の命日です。息子と実家に行き、仏壇に向かって手を合わせました。

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2009年7月22日 (水)

晩春

 大分市の王子神社の夏祭りに行ってきました。この時期は神楽好きの息子にせがまれて、市内各地の祭りに出掛けています。王子神社の祭りは初めてでしたが、なぜか懐かしさを覚えました。大分市指定有形文化財である鋳物の鳥居をくぐると参道の両脇には出店が並んでおり、その風景はまるで映画のセットのようで「これぞ日本の夏祭り」といった雰囲気を演出していました。肝心の神楽では、息子がひょっとこにおびえて泣き出してしまいました。お父さんのそばにいれば大丈夫だから見ようと説得しましたが、帰りたいと言って聞きませんでした。

 泣いたおかげで予定より早く帰宅することができ、二人で風呂に入りました。体を洗ってやっていると息子が神妙な顔つきで「ぼく、結婚せんけん。ずっと、お父さんとおりたい」と言います。それは映画「晩春」の原節子のようでした。

 この1949年の小津安二郎監督作品では、早くに妻を亡くした大学教授(笠智衆)となかなか結婚しない娘(原)の暮らしが描かれています。娘は父親の世話をかいがいしくします。このままではいけないと思う父は結婚を勧めますが、娘は「このままがいいの。ずっとお父さんといたい」と答えます。ぼくは息子の言葉にこの名場面を思い出しました。
「お父さんな、うれしいけどな、お父さんも結婚したんで」
「お母さんとやろ」
「そうで。だけんな、お前もした方がいいよ」
「そんなのいやだ。お父さんといたい」
 泣きながら言うので「分かったよ」と収めましたが、もちろん嫌な気はしませんでした。ただですね、普段から○○ちゃん(よく変わるんです!)が好きとのたまう息子ですからね、期待しないでおこうとは思っています。

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2009年7月16日 (木)

クレイマー、クレイマー

 映画好きの方ならピンときたかもしれませんが、このブログのタイトルにある「フレンチトースト」は1980年公開の映画「クレイマー、クレイマー」に由来しています。この映画は第52回アカデミー賞作品賞や監督賞などを受賞しています。

 仕事に没頭するあまり家庭を顧みなかった男(ダスティン・ホフマン)に、妻(メリル・ストリープ)は愛想を尽かして出て行きます。翌朝、小学生の息子と二人になった男は朝食を作ります。そうです、フレンチトーストです。でも、これまで料理などの家事をしてこなかった男はうまく作れません。こんな風にして、二人だけの生活が始まります。ぼくも息子と二人の生活が始まったばかりのころ、フレンチトーストを作りました。しかし、息子はあまり食べませんでした。甘くなかったのです。卵を溶いた状態では甘かったのですが、焼くと甘味が飛んでしまいました。そんな話を友人や会社の先輩にすると、ハチミツをかければいいとアドバイスしてくれました。それからは、息子も喜んで食べるようになりました。

 映画のストーリーを明かすほど無神経なこともありませんのでこれ以上は書きませんが、父親と息子の暮らしには濃密な空気がありました。互いに何をしてあげられるのだろうか。そんな思いが親子の関係を濃いものにしていたのは間違いないと思います。
 ぼくと息子の生活を考えると―。息子はまだ4歳なのでぼくと二人の暮らしが意味するところを正確には理解できていないでしょう。それに、ぼくや妻の実家も市内にあり、息子は祖父母とも気軽に会えます。そんなこともあり、二人の生活が始まって5か月になりますが、まだ“ごっこ”の域を出ていないような気がします。
 息子は母親の不在を、これから少しずつ分かっていくことでしょう。ぼくが作るフレンチトーストもまだまだですが、少しずつでも上達できればいいなと思っています。親子二人、一緒に少しずつでも成長していければ言うことはありません。

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